文学少女の題材となった作品を読んでみよう!
というのは前々から思っていたことでした。
そんなわけでまずはこの「人間失格」
恥ずかしながら、今回初めて読みました。
だいぶ前から手元にはあったけど、
なかなか読み出すタイミングをつかめずにいました。
少し前から読み始めて先日ようやく読み終えました。

全体を通していえばなんという鬱小説なんでしょうか。
こんなに救いのない話は、これまで読んだことがなかったと言って良いでしょう。
特にここ最近はハッピーエンドなライトノベルばかり読んでいたので、
こういう鬱々とした物語への耐性もさぞ落ちていただけに余計にきつかった。

その内容についてあれこれ言うのは野暮だし、あえて多くは語りません。
自分はあれこれ論評できるほど文学に精通してるわけでもないしね。
でもちょっとだけ、感じたことを書いておきたいと思う。内容云々はさて置き、ね。


最初はその独特などんよりとした雰囲気もあり、ページをめくる手もなかなか進まなかった。
章ごとに分かれていなかったり段落が変わることも少なく、
鬱々とした文章が延々と勢いよく続き、正直に言えば「読みにくい」という印象でした。
それなのに後半になるに連れて気づけば次々と先を読みたくなり、
ページをめくるのが早くなっていた。そんな次を求める感覚には自分でも驚いた。
意識的には「なんだこの暗ーい話。気が重いなぁ」などと思っていたのに、
潜在的な部分では次を、先をと読み求めていたんだなぁと。
無意識のうちにそういう風に感じてしまったのは、
きっとそれがこの作品の不思議な魅力の1つだからでしょう。

全体を通してみればまだ理解できないことも多いし、
なんでそんな思考になるのか分からないと感じる部分もある。
それはきっとこの物語中の絶望に希望が一切無いからなんだろうなぁ。
だからこそ、ほんの少しの共感を得られたようにも感じた。
それ故に、それなりに自分のこれまでの人生を省みながら読んでしまうんだろうなぁ。

ちなみに太宰というと、高校の国語の授業で「富嶽百景」を読んだことを思い出しました。
全編読んだわけじゃないし、もう何年も前のことだから内容もよくは覚えてない。
でもなんとなーく残ってる印象によれば人間失格とはまぁ似ても似つかない作品ですよね。


それとよくこの人間失格が中学や高校の読書感想文の推薦図書になってたりするけど、
多感な思春期にこれを読むのってちょっと危険な感じもした。
思春期にこの作品に過度に共感しちゃうと、その後の人生が大きく歪んじゃう気が・・・
でも、だからこそある意味読んでみる価値があるのかも知れないとも思う。
暴論であるのを承知であえて今風の言い方をすると、
この手記を書いている葉蔵もある種の「中ニ病」だしなぁw



なんか話が四方八方飛んでまとまってないけど、そんなことを感じました。


以下文学少女を絡めた余談



この「人間失格」の影響を直撃してしまった存在が竹田千愛なのは言うまでもなく。
この日記上でも再三書いてるけど「人と同じように感じられない」という悩みは、
程度の差はあれど誰しもが1度は感じることのように思う。
そんな思春期に人間失格を読んで強く影響されすぎた人物の象徴が彼女なんだと思った。

一方で人間失格が題材となった「死にたがりの道化」に限って言えば、
主人公の井上心葉にも人間失格の描写に近いものを感じました。
というのも、一度目の心中で相手の女性が死んで生き残った自分を責める葉蔵と、
美羽に飛び降りられてすべてに絶望し引きこもった心葉が重なって見えたのです。
(少なくとも読者視点ではこの時点での美羽の生死は不明なので余計にね)
深読みしすぎかも知れないけど、もし本当にそう意識していたらすごい話だよなぁ。

また、「人間失格」に影響され切って、死を選ぼうとする竹田さんに対しての、
遠子先輩の「人間失格だけで太宰を判断して死を選ぶのは勿体無い。他の作品も読むべき」
という説得の重みも人間失格を読んでからだと変わります。
確かに人間失格は太宰の本音だという説もあるようだけど、
他の作品にはそれぞれの主張があるんだろうしね。
人間失格だけで判断するのは勿体無いのは確かでしょう。

とまぁ、またまたまとまってないけど率直に感じたことを書いてみました。
あと「死にたがりの道化」の竹田さんは「人間失格の」葉蔵よりも重症だと思ったかな。
あぁもう、こんなこと書いたらまた道化読みたくなってきました。
が、現在道化は貸し出し中。もう1冊買っちゃおうかな・・・

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