狭き門 (新潮文庫)
2014年2月11日 読書
昨年12月~年始にかけて読んでいた1冊です。
実はこの本、購入したのはもうずっと昔のことで、
確認してみたら約3年も昔のことでした。
過去に2回ほど読んでみようと挑戦したことがあったのですが、
その時は文字がまったく頭に入ってこなくて最初の十数ページで断念。
今回、積んでいたラノベを一通り読み終えたので三度挑戦してみたところ、
最後まで読みきることができました。三度目の正直、ですね。
かつて作品の雰囲気にまったく入り込めなかった時の挫折感がウソのように、
今回は最初から文章がすんなり入ってきました。
ページが進まない時は無理に読み進めようとせず寝かせてみるのも大事ですね。
そんなわけで随分久々となった「文学少女」の元ネタ作品巡りです。
既に文学少女どころかその後に出たヒカルが地球にいたころが完結目前ですけどもw
それはさて置き今回の作品、ジッドの「狭き門」は文学少女本編の最終巻にあたる、
「神に望む作家」のネタ本として使われていました。
<本書そのものの感想>
読み終えた率直な感想としては、
「恋だ愛だはいつの時代も変わらんのだなぁ」
ということでした。
本作は今から100年以上も昔のフランスの作品。
作中のジェロームとアリサの関係のもととなったのは、
作者であるジッドとその妻マドレーヌであるという解釈もあるようです。
今の日本にはないキリスト教の感覚やらなにやらはあるけど、
それでもやっぱり誰かが誰かを好きになり、その中で葛藤して苦しみもがく。
それは国や時代が違えど変わらないのかなと感じました。
えてしてその想いが強ければ強いほど、葛藤や苦しみもまた大きくなる。
愛するアリサと釣りあう人物であろうと研鑽を続けるジェロームと、
そんなジェロームをより高みへと導くため、
終いには自らの命すら彼の糧として差し出したアリサ。
そんな2人を互いに高めあう清らかな関係と見ることもできれば、
互いに好き合ってるのにくっつかない残念なカップルとみなすこともできてしまう。
そしてそれはどちらが正しくてどちらが間違っているというものでもないのでしょう。
どちらも正しくて、また間違ってもいるように感じてなりません。
さてそんなこの作品。この言い方が適切とは思えないのですが、
ちょっと思ってしまったことなので正直に記します。
ヤンデレ同士が互いを想いすぎた結果
あえて今風の俗っぽい言い方をするならば、
これを描いたものがこの小説であるように感じてしまいました。
相手を高みへと導くために自ら命を絶つアリサの行き過ぎとも取れる深い想い、
盲目的に相手の素晴らしい部分のみを見つめてしまい、
あるがままのアリサを受け入れられないジェローム。
いかにも現代日本の二次元におけるヤンデレ思考ではなかろうか。
いやまぁ、こんな純文学作品に対して何たる言い草だって話だけどさ・・・。
とんでもなく酷い見方だとは自分でも思うけどさ・・・・・でも思っちゃったんだもん。
本来は宗教・思想・哲学的その他諸々のこもった小説なのだとは思います。
ただ、自分にとっては主にジェロームとアリサのやり取りに見られる、
「想い想われることの尊さと難しさ」
これこそが本書から感じ取ることのできた最も印象に残ったイメージでした。
そう感じてしまうのはこの作品をあくまで「文学少女」の背後に眺めているからでしょう。
もちろん、他のフランス文学やキリスト教に触れたことのがなく、
そういった分野に対する知識の無さも原因であるとは思うけども。
そして、同時に自分もまた狭き門をくぐったからでもあるんだろうなぁ。
というわけで、ここから先は「文学少女」視点でみた感想に移ります。
<「文学少女」の元ネタとして>
狭き門を読み終えてから「神に望む作家」の物語を考えると、
作中には2つの狭き門が描かれているように感じました。
1つは井上心葉をジェローム、天野遠子をアリサ、
琴吹ななせをジュリエットに見立てた、心葉と遠子をめぐる狭き門。
もう1つは天野文陽(遠子父)をジェローム、天野結衣(遠子母)をアリサ、
そして櫻井叶子をジュリエットとした、遠子の両親を軸とした狭き門。
これら2つを上手く組み合わせて作られたのが、
「神に望む作家」という文学少女の物語であると強く感じました。
この関係をベースとしながらもそれ以外の想像の余地が残されている辺りに、
狭き門に対する解釈の幅広さを感じることができるでしょう。
狭き門自体はアリサ亡き後のジェロームの手記という形で綴られるわけだけど、
叶子と結衣が互いにジェロームとアリサであると語った心葉が想像を語るシーンなどは、
元ネタに対してオリジナルとは違った解釈もできることを示していると言えるでしょう。
作者さんが本当に色んな角度から狭き門を読んでいることが、
あのシーンからだけでも容易に想像ができます。
自分が真っ先に思ったのは、朝倉美羽にもまたジュリエットの要素を
いくらか割り当てていたのではないかということ。
で、仮に美羽もジュリエットだとすると、芥川君がアベルだよなぁ。
などと色んな方向に想像が膨らんでいきます。
もちろんこれは単なる空想に過ぎないので、
実際に作者が狭き門と文学少女のキャラクターをどう割り当てていたのかは
単なる読者でしかない自分には知る由はありません。
ただ、そんな風に色々考えながら読み進めていくのは、
それが正しいかどうかはさて置き大事なことではないかと思うのです。
なにせ文学少女は「ひとつのお話を多面的にみること(=真実をみること)」を、
シリーズを通じて遠子先輩が心葉君に教える物語であると思うからね。
(それを象徴するのが「巡礼者」の美羽が見た「青空に似ている」であったりするんだし)
「狭き門」を知らない状態で読んだ当時はよく分からないままスルーしていたけど、
いざ内容を知ってから読むとまた違った味わいが生まれる気がしてなりません。
この記事を書くにあたって文学少女のほうもさらっと見返してみたけど、
軽く数ページ眺めただけでも最初に読んだ当時は見えなかったものが見えた気がしたし。
元ネタを知ったからというのも大きいですが、発刊日を見たらもう6年近くも前なのか。
そりゃ当時と今とでは見え方が変わるのもある意味当然だよね・・・。歳は取りたくないものです。
とまぁ、例によってつらつらと思ったことを書き並べてみました。
本当にいろんな意味で考えさせられる難しい作品です。
自分の頭の中で思っていることや感じたことは多々あれど、
それをいざ文字として書き起こそうとするとままならないことが多いです。
今回の文章もパソコンを前にして何時間も色々書いては消してを繰り返しました。
それでも自分の言いたいことがきちっとまとまったものとは言い難いです。
特にこういうお堅い作品の場合は余計に難しい。
そんなわけで「"文学少女"の元ネタ紀行 ~狭き門~」でしたとさ。
実はこの本、購入したのはもうずっと昔のことで、
確認してみたら約3年も昔のことでした。
過去に2回ほど読んでみようと挑戦したことがあったのですが、
その時は文字がまったく頭に入ってこなくて最初の十数ページで断念。
今回、積んでいたラノベを一通り読み終えたので三度挑戦してみたところ、
最後まで読みきることができました。三度目の正直、ですね。
かつて作品の雰囲気にまったく入り込めなかった時の挫折感がウソのように、
今回は最初から文章がすんなり入ってきました。
ページが進まない時は無理に読み進めようとせず寝かせてみるのも大事ですね。
そんなわけで随分久々となった「文学少女」の元ネタ作品巡りです。
既に文学少女どころかその後に出たヒカルが地球にいたころが完結目前ですけどもw
それはさて置き今回の作品、ジッドの「狭き門」は文学少女本編の最終巻にあたる、
「神に望む作家」のネタ本として使われていました。
<本書そのものの感想>
読み終えた率直な感想としては、
「恋だ愛だはいつの時代も変わらんのだなぁ」
ということでした。
本作は今から100年以上も昔のフランスの作品。
作中のジェロームとアリサの関係のもととなったのは、
作者であるジッドとその妻マドレーヌであるという解釈もあるようです。
今の日本にはないキリスト教の感覚やらなにやらはあるけど、
それでもやっぱり誰かが誰かを好きになり、その中で葛藤して苦しみもがく。
それは国や時代が違えど変わらないのかなと感じました。
えてしてその想いが強ければ強いほど、葛藤や苦しみもまた大きくなる。
愛するアリサと釣りあう人物であろうと研鑽を続けるジェロームと、
そんなジェロームをより高みへと導くため、
終いには自らの命すら彼の糧として差し出したアリサ。
そんな2人を互いに高めあう清らかな関係と見ることもできれば、
互いに好き合ってるのにくっつかない残念なカップルとみなすこともできてしまう。
そしてそれはどちらが正しくてどちらが間違っているというものでもないのでしょう。
どちらも正しくて、また間違ってもいるように感じてなりません。
さてそんなこの作品。この言い方が適切とは思えないのですが、
ちょっと思ってしまったことなので正直に記します。
ヤンデレ同士が互いを想いすぎた結果
あえて今風の俗っぽい言い方をするならば、
これを描いたものがこの小説であるように感じてしまいました。
相手を高みへと導くために自ら命を絶つアリサの行き過ぎとも取れる深い想い、
盲目的に相手の素晴らしい部分のみを見つめてしまい、
あるがままのアリサを受け入れられないジェローム。
いかにも現代日本の二次元におけるヤンデレ思考ではなかろうか。
いやまぁ、こんな純文学作品に対して何たる言い草だって話だけどさ・・・。
とんでもなく酷い見方だとは自分でも思うけどさ・・・・・でも思っちゃったんだもん。
本来は宗教・思想・哲学的その他諸々のこもった小説なのだとは思います。
ただ、自分にとっては主にジェロームとアリサのやり取りに見られる、
「想い想われることの尊さと難しさ」
これこそが本書から感じ取ることのできた最も印象に残ったイメージでした。
そう感じてしまうのはこの作品をあくまで「文学少女」の背後に眺めているからでしょう。
もちろん、他のフランス文学やキリスト教に触れたことのがなく、
そういった分野に対する知識の無さも原因であるとは思うけども。
そして、同時に自分もまた狭き門をくぐったからでもあるんだろうなぁ。
というわけで、ここから先は「文学少女」視点でみた感想に移ります。
<「文学少女」の元ネタとして>
狭き門を読み終えてから「神に望む作家」の物語を考えると、
作中には2つの狭き門が描かれているように感じました。
1つは井上心葉をジェローム、天野遠子をアリサ、
琴吹ななせをジュリエットに見立てた、心葉と遠子をめぐる狭き門。
もう1つは天野文陽(遠子父)をジェローム、天野結衣(遠子母)をアリサ、
そして櫻井叶子をジュリエットとした、遠子の両親を軸とした狭き門。
これら2つを上手く組み合わせて作られたのが、
「神に望む作家」という文学少女の物語であると強く感じました。
この関係をベースとしながらもそれ以外の想像の余地が残されている辺りに、
狭き門に対する解釈の幅広さを感じることができるでしょう。
狭き門自体はアリサ亡き後のジェロームの手記という形で綴られるわけだけど、
叶子と結衣が互いにジェロームとアリサであると語った心葉が想像を語るシーンなどは、
元ネタに対してオリジナルとは違った解釈もできることを示していると言えるでしょう。
作者さんが本当に色んな角度から狭き門を読んでいることが、
あのシーンからだけでも容易に想像ができます。
自分が真っ先に思ったのは、朝倉美羽にもまたジュリエットの要素を
いくらか割り当てていたのではないかということ。
で、仮に美羽もジュリエットだとすると、芥川君がアベルだよなぁ。
などと色んな方向に想像が膨らんでいきます。
もちろんこれは単なる空想に過ぎないので、
実際に作者が狭き門と文学少女のキャラクターをどう割り当てていたのかは
単なる読者でしかない自分には知る由はありません。
ただ、そんな風に色々考えながら読み進めていくのは、
それが正しいかどうかはさて置き大事なことではないかと思うのです。
なにせ文学少女は「ひとつのお話を多面的にみること(=真実をみること)」を、
シリーズを通じて遠子先輩が心葉君に教える物語であると思うからね。
(それを象徴するのが「巡礼者」の美羽が見た「青空に似ている」であったりするんだし)
「狭き門」を知らない状態で読んだ当時はよく分からないままスルーしていたけど、
いざ内容を知ってから読むとまた違った味わいが生まれる気がしてなりません。
この記事を書くにあたって文学少女のほうもさらっと見返してみたけど、
軽く数ページ眺めただけでも最初に読んだ当時は見えなかったものが見えた気がしたし。
元ネタを知ったからというのも大きいですが、発刊日を見たらもう6年近くも前なのか。
そりゃ当時と今とでは見え方が変わるのもある意味当然だよね・・・。
とまぁ、例によってつらつらと思ったことを書き並べてみました。
本当にいろんな意味で考えさせられる難しい作品です。
自分の頭の中で思っていることや感じたことは多々あれど、
それをいざ文字として書き起こそうとするとままならないことが多いです。
今回の文章もパソコンを前にして何時間も色々書いては消してを繰り返しました。
それでも自分の言いたいことがきちっとまとまったものとは言い難いです。
特にこういうお堅い作品の場合は余計に難しい。
そんなわけで「"文学少女"の元ネタ紀行 ~狭き門~」でしたとさ。
<参考 -文学少女と神に臨む作家 感想記事->
【http://34643.diarynote.jp/200808312207410000/】
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